南アルプスのユネスコエコパーク

日本生態学会誌62:387-391 (2012) 増澤武弘より一部改変

はじめに

 現在、日本では4ヶ所がユネスコエコパークに指定され、さらに2012年7月には宮崎県綾地域が登録された。南アルプスはこれらに続いて登録されることを目標にその準備を進めている。南アルプスは古くから自然度の高い山岳として知られているが、これに関する資料や文献は他の山岳地域と比べて極めて少ない。しかし、近年「南アルプスの自然」に関する研究がいくつかなされて、その結果が発表されている。ここではそれらの文献と過去の文献をもとに、ユネスコエコパークの登録の可能性について述べる。
 ユネスコエコパークは指定区分の中に、保存機能、開発機能、学術的支援の3つの機能があり、各々の機能を達成するために、相互に依存する3つの区域が設定されている。それらは、核心地域、緩衝地帯、移行地域である。これらの区域にはそれぞれの規定があり、ユネスコの定める条件に適合していなければならない。本稿では各区域について、南アルプスの持つ多様な自然の特徴を解説して、ユネスコエコパークの可能性を検証してみる。

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南アルプス

 南アルプスは、日本列島のほぼ中央に位置し、富士川と天竜川に挟まれた南北に100km以上、幅が50kmにわたる赤石山脈の一体を指すものである。山系でいうと甲斐駒・鳳凰山系、白根山系、赤石山系になる。これらの山系には標高3,000mを超える高峰が13座存在する(ピークの数え方により9座または11座などとも言われる)。現在みられる南アルプスの基盤構造とその配置は、今から1,000〜300万年前に完成したと言われている(狩野ほか1993;狩野2002)。この山地は深海底からの岩石が長期間に地殻変動により隆起したもので、現在も隆起活動が続いている。南アルプスの高山・主稜線地域および低山・渓谷地域の地形・地質については、村松ほか(2001)による詳細な解説がある。
 南アルプスの特徴の一つとして、その山塊の大きさと広大な森林植生が挙げられる(土1985;近田1981)。そのため、北アルプス・中央アルプスに比べて開発が進まず、天然林に近い森林が拡大な面積にわたって残存している(宮脇ほか1987)。もう一つの特徴として、山岳地域としては日本列島の南部にあたるため、暖帯から寒帯まで幅広い気候帯を持つとともに、植物の分布において南限や北限のものが多く、動物においても高山性の昆虫類やライチョウなどの南限にあたる。
 太平洋側の温暖多雨の条件と深い峡谷が作り出す地形により、多様な植生が発達している。行政区分では静岡県、山梨県、長野県の10市町村にわたる。

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核心地域

 南アルプスの核心地域は自然度が高く、人間の影響が少ない地域である。自然公園法に基づく現在指定されている国立公園内において、特別保護地域にあたり、標高にして約2,800m以上に位置する。また、南部の光岳南西面には、自然環境保全法に基づく大井川源流部原生自然環境保全地域があり、極めて自然度の高い部分が含まれている。これらの地域は、前記の法律などにより長期間の保護が担保されている。また、南北に長い稜線付近には、多様な高山植物群落が発達し(水野1984)、それらの群落には、多くの固有種・周北極要素の種、大陸要素の種が含まれている(杉本1984)。

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氷河地形と周北極要素の植物群

 南アルプスの核心地域は、最終氷期に発達した氷河により大きな影響を受けている(五百沢1966)。もっとも特徴的なものは山岳カール地形である。この地形は仙丈ヶ岳、間ノ岳、荒川岳、悪沢岳の東面でみることができる。南アルプスを含む中部山岳地域の氷河地形については、前述の山岳を含めいくつかの報告がある(貝塚ほか1986;町田ほか2006;増沢2010)。
 カール地形はカール壁、崖錐、沖積錐、カール底、モレーンから成り、それらが完全に残存しているものから、一部が長期間に崩壊してしまったものもある。荒川岳から赤石岳にかけて存在するカール群は、カール地形の条件をほぼ満した日本列島最南限のものである(図1,2,3)。
 カール地形内には多くの湿性・乾性の高山植物が生育している(増沢2007)。特に南限のカールには周北極要素の植物が集中的に分布し、これらの植物群の南限にもなっている(増沢ほか2005, 2006a, 2006b)。南アルプスの核心地域に残存する南限の氷河地形、また南限の周北極要素の植物群は、核心地域を設定するにあたり、極めて特徴的な存在といえる(増沢ほか2008)。
 日本列島の高山帯で一般的に見られる木本植物としてはハイマツが挙げられる。南アルプスの高山帯には広くハイマツが分布しているが、南アルプスの最南部にあたる光岳のハイマツ群落は南限にあたり、ここは高山の鳥類として重要なライチョウの生息地の南限でもある。
 また、南アルプスの核心地域には周氷河地形が多数存在する。現在でも稜線付近の比較的なだらかな斜面には、土壌中の水分の凍結・融解の繰り返しによる構造土が形成されている。これらは砂礫が直線条に並ぶものや幾何学模様を呈するものであるが、すでにその活動が停止して、化石氷河地形といわれているものもある。茶臼岳北部に存在する構造土はこの化石氷河地形にあたり、その幾何学的な形態が残存するものとしては南限にあたり、天然記念物に指定されている(増沢2007)。この地形は極めて貴重なものであり、核心地域の中では特徴的な存在である。
 南アルプス北部に位置する北岳には、標高の高さと特殊な地質条件により、特異的な植物が数多く分布している(図4)。標高3,000m付近の石灰岩地には、南アルプスの固有種や南アルプスと他の限られた地域のみに生育する種が多く見られる。特にキタダケソウCallianthemum hondoense Nakai et H.Haraは特異的な存在である。近縁種は北海道に分布するヒダカソウ、キリギシソウであり、大陸では朝鮮半島の長白山に分布する。その他には、キタダケヨモギ、キタダケトリカブト、キタダケキンポウゲなどが生育し、この分布的特徴は、核心地域として重要な要素となっている。

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緩衝地帯

 移行地域と核心地域の間に位置する区域で、核心地域に隣接しそれをとり巻いている区域である。この地域は生物保存のための実験的な研究を行う場所だけでなく、教育や研修、観光などにも利用できる。南アルプスではほぼ国立公園内に属し、国有林や県有林にあたる。しかし、必ずしも上記の区分には入らず、私有地である部分も多い。いずれにしても核心地域の保護に沿った活動が行われる部分である。
 南アルプスの緩衝地帯に属する天然林は大きく分けると五つの森林に分けることができる。それらはブナ・ミズナラを主体とする落葉広葉樹林、落葉樹とツガ・ウラジロモミからなる混交林、標高1,600m〜1,800mにみられるウラジロモミ‐コメツガ林、亜高山帯を広く占めるシラビソ林、亜高山帯上部から高山帯にかけてのダケカンバ林である。
 上述の森林の多くは、長野県・山梨県では国有林と県有林にあたり、緩衝地帯の規定に合った利用が可能であると考えられる。また、静岡県側は私有地と国有林であるが、私有地においても現在適切な保護・保全がなされている。これらの観点から、南アルプスにおけるユネスコエコパークの緩衝地帯として、その規定を満足するものと思われる。

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移行地域

 上記の2つの核心地域・緩衝地帯をさらに大きくとり巻く区域で、人間の生活と自然が共存している部分である。この地域では、人間の居住が許容されていて、ユネスコエコパークにおける社会的・経済的発展が期待される地域である。
 この地域設定は、南アルプスをユネスコエコパークとして成立させるために、最も困難を伴う部分である。長野県側では、伊那市・飯田市、富士見町、大鹿村、山梨県側では、韮崎市、北杜氏、南アルプス市・早川町、静岡県側では、静岡市・井川地区・川根本町である。これらの地域では市街地が含まれるか、または隣接するため、区分設定には、住民の理解と十分な話し合いが必要となる。また、緩衝地帯と市街地までには、スギ・ヒノキの人工林・田畑・果樹園などが存在するため、それらをどのように取り込んでいくのか、熟考が要求される。
 一例を挙げると、静岡市井川地区は、移行地域として、その機能を多面的に持っているところである。現在、多方面から、環境省の基準に沿ったエコツアーが計画されていて、実際に井川地区だけでなく、この地域以外の市民や小中学生を対象に実施されている。それらの計画の中では、すでに持続的発展教育(ESD:Education for Sustainable Development)としての野外活動が進められている。また、静岡市では、生物多様地域戦略により生物多様性の保全に対する取り組みも行われている。
 さらに、一般企業を主体として、新しいタイプの林業経営形態として、大井川源流域森林再生協議会が設立された。これは井川地区住民と林業を通して共存発展を志すもので、森林や自然の大切さを理解すると共に、複数の所有者の森林を取りまとめて施業集約化を行い、利用間伐、道路整備、ならびに木材の利用を長期的に支援するものである。このような試みは、まさにユネスコエコパーク地域において、社会的・経済的発展が期待されるものである。その他、長野県・山梨県においても、既にエコツアー、教育的な野外活動が移行地域において展開されているため、これらの活動は移行地域設定に大意に寄与するものと思われる。

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おわりに

 南アルプスは、ユネスコエコパークになる可能性があるかというテーマに対して、本稿では、その可能性は大いに有り得るという結論に達した。ユネスコエコパークの理念の中では、最終的に貴重な核心地域をいかに保全・保護していくかに重点が置かれている。核心地域を構成する素材の価値として、地質・地形に関して、赤石山地の成立過程とその隆起速度、活断層、湿潤変動帯、侵食地形(V字谷)、南限の氷河地形・周氷河地形などが挙げられる。生物に関しては、特殊地質成分の立地に生育する植物および南アルプスの固有種の存在、氷河地形に残存する周北極要素の植物群、ハイマツ及びライチョウLagopus mutus japonicusの分布の南限、広大な天然林などが挙げられる。これらの地質・地形・生物の特性は核心地域を構成する素材として十分に認められるものであろう。また、核心地域を取り巻く国有林や県有林は適切にその機能を果たすものと思われる。
 移行地域に関しては、ユネスコエコパークの理念について、関係者に対し、粘り強い説明と話し合いが必要である。しかし、現時点で、移行地域の内容を理解して協力している地域が少しずつ増えているため、この地域の設定の可能性は大いに期待できる。
 南アルプス周辺では、林業・地域産業・文化活動が適切に関係し合い、かつ、自然が人為的にも守られていく方向性が各地で打ち出されている。この方向性とユネスコエコパーク構想は相反するものではなく、むしろ、相互に協調して発展するものと思われる。 

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図1

 荒川三山のうち中岳南東面に見られるカール地形と植物群落。増沢武弘

図2

 荒川三山のうち中岳南東面に見られるカール地形と植物群落。増沢武弘

図3

 荒川三山のうち中岳南東面に見られるカール地形と植物群落。増沢武弘

図4

 北岳の南東面、石灰岩地に多様な植物群落が見られる。増沢武弘

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